Vol.28 西村和彦さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.28 2014/9/16更新

『結婚をして子どもを授かってからは、
家に対する価値観が変わりました』 西村和彦さん

『結婚をして子どもを授かってからは、
家に対する価値観が変わりました』西村和彦さん

profile
西村和彦(にしむらかずひこ)
1966年京都府生まれ。88年テレビドラマ『翼を下さい』(NHK)で俳優デビュー。その後、『警視庁鑑識班』(NTV)シリーズで主演。以後、テレビドラマ、映画、CMなどで幅広く活躍。2006年に書道家・國重友美さんと結婚。2児の父。

独身のころは家に対する執着やこだわりはなかったと いう西村和彦さん。しかし、子どもを授かってからは その考えや価値観が変わり、子どもへ残すものという 考えが強くなったそうです。 そんな西村さんの家に対する考えはもちろん、 京都・伏見稲荷大社の境内の中にあるご実家での生活、 上京後の暮らしなどもうかがいました。

実家は京都の老舗茶屋。鳥居が連なる参道を毎日往復

西村和彦さんの写真1
子どものころを思い出す西村和彦さん

実家は、京都の伏見稲荷大社の境内で茶屋を営んでいます。稲荷山の山頂へ向かう途中の四ツ辻と呼ばれる場所にあり、「千本鳥居」という鮮やかな朱色の鳥居をどんどん進んだ山のちょうど中腹あたり。麓からゆっくり歩けば1時間くらいのところでしょうか。1階は「仁志むら亭」という茶屋で2階が住まいでした。私が子どものころは、そこに祖父、祖母、父、母、兄、姉、2人の叔母と私の9人で暮らしていました。
毎日、学校へ行くために参道を1往復、遊びに行くために1往復、遊んで帰ってくると買い物に行かされて1往復と、最低3往復はしていましたね。車など使えませんから、父や母も、家族全員が徒歩でその参道を毎日上り下りしていました。
店をやっていたので、毎日ビールやジュース、プロパンガスなどの重い荷物も運ばなくてはなりません。それを手伝うのも私の日課でした。観光客の方にとってはハイキングコースですが、我が家にとっては生活道路ですから、自然と足腰が鍛えられたと思います。
2階は障子で仕切った部屋が7つ。以前は茶屋だけでなく滝行へ来られた方をお泊めする宿坊も営んでいました。それぞれの部屋に下がった「○○の間」という札が当時の名残ですね。中でも私が一番好きだった場所は4畳くらいあった布団部屋。畳んで重ねてある布団の隙間にぬくぬくと入るのが好きでした。よく、親に怒られましたけどね(笑)。
創業して150年ほど経つ店なので、建物もとても古いんです。昔の造りですから階段がかなり急で、子どものころはよく足を踏み外して落ちていました。当時、風呂は五右衛門風呂で、店から出た使用済みの割りばしを薪代わりに風呂を沸かすのが私の役目でした。トイレは汲み取り式でしてね。月に1度、私と兄で汲み出して処分場まで運ばなければならなかったんです。幼いころは父と祖父がやっていましたが、ある程度兄と私の体が大きくなると、おまえたちがやれと。その作業は本当に辛かったなぁ。他にも屋根や壁に開いた穴の修繕もしましたし、遊ぶ道具が欲しければ身近にある木などを使って自分で作りました。小さいころから何でもやらされていたんですね。家では子どもながらも働き手で、それが当たり前でした。

映研サークルに入るために大学受験。上京後、最初に住んだ部屋は家賃重視

西村和彦さんの写真2
上京したころついて話す西村和彦さん

18歳で大学進学を機に上京しました。大学へ行きたいというよりも、小さいころから高校卒業後は家を出て独立したいという強い思いがありました。行くなら東京です。京都に近いと週末は店の手伝いをしに帰らなくてはならないと感じたんでしょう。そういう束縛から解かれたかったんですね。
子どものころから映画が好きで、学校の学芸会や文化祭でもシナリオを書いたり演出をしたりしていましたから、将来は映画の道に進むか、料理も好きだったので板前になるか、どちらかだと思っていたんです。高校の先輩が映研で活動している大学を受験して、落ちたら進学は辞めて板前になるつもりでした。
そして運よく合格。受験前は東京へ行くことを認めていた母でしたが、本心はまさか受かると思っていなかったんでしょうね。母に「受かったから東京へ行くよ」と言うと、「お前、店はどうするの?」「週末手伝いに来られるの?」と言われました。母は兄と一緒に私が店を継ぐことを期待していたんだと思います。東京では、最初に大学の近くに間借りしました。光熱費込みで1万8千円と、当時にしてもかなり安かったのが決め手ですね。
最初の1∼2か月は親に仕送りをもらっていましたが、そのあとはバイトをして自分の力で生活をするつもりでしたし、映画を作るためのフイルム代も貯めたかったから、家賃は少しでも安いほうが良かったんです。
間借りゆえのハプニングもいろいろありましたよ。私の隣の部屋は、大家のおばあちゃんの部屋だったのですが、おばあちゃんが間違って私の部屋に入ってきたり、トイレの戸をあけるとおばあちゃんが用を足していたりと(笑)。
そこには1年半くらい住みました。バイトをして少し余裕ができたので、次に引っ越したのが家賃4万円の部屋です。銭湯の2階だったので、湿気で服が見事にカビてしまったのは苦い思い出ですね(苦笑)。

子どもを授かってからは家に対する考えが変化。家や土地は、家族の絆のひとつ

西村和彦さんの写真3
家に対する考えを語る西村和彦さん

芸能界で仕事をするようになり、中野坂上にある風呂付きのアパートに引っ越しました。特に間取りやインテリアにこだわりはなかったので、ワンルームの和室にパイプベッドと小さなテレビがあるだけという殺風景な部屋でした。そこには結局7年くらい住みました。その後、車を買ったので駐車場付きのマンションに住んだりと、幾度か引っ越しました。
結婚後は、すべて妻任せです。物件を探すのも、引っ越しの手配をするのも何から何まで彼女です。今の家はレイアウトも彼女がすべて入念に考えたので、その甲斐あって使い勝手はいいですね。唯一、私が意見を出したのがキッチンです。私が料理をするときに使いやすいようにと考え、シンクの位置を高めにしました。背の低い人が高いシンクを使うときは足元に台を置いたりすればいいけれど、背の高い人が低い位置で作業をすると、腰を曲げなくてはならず大変ですから。
そもそも家に執着心はなかったので、独身のときは家を持ちたいという感覚はまったくありませんでした。でも、結婚をして子どもを授かってからは家に対する価値観が変わったようです。もちろん家だけじゃなく、例えば、車にしても、時計にしても、自分だけのものではなくて子どもたちに残すものという思いが生まれました。特に土地や家に対しては、そういう思いが強いですね。独身のころの自分は家賃やローンを払うことの苦労や責任、その価値や意味を考えることはありませんでした。でも子どもがいる今は、それが家族の絆のひとつでもあるように思います。

こぼれ話

空手、水泳、乗馬など多数の特技を持つ西村さんですが、そのひとつでもあるのがハンドボール。現在、40歳以上のマスターズチームGHBP Aresに所属。2013年に結成したGHBP Aresは、結成初年度に全国マスターズ大会で初出場初優勝。さらに、今年の8月に行われた同大会でも優勝を果たし2連覇という輝かしい成績を収めているそうです。東日本大震災の被災地である東北の子どもたちを招待したハンドボールチャリティーマッチなども開催しています。

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