Vol.29 藤岡弘、さん

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Vol.29 藤岡弘、さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.29 2014/10/21更新

『住まいづくりは 男のロマン
でも、ずっと同じ家に住む考えはありません』 藤岡弘、さん

『住まいづくりは 男のロマン
でも、ずっと同じ家に住む考えはありません』藤岡弘、さん

profile
藤岡弘、(ふじおかひろし、)
1965年、松竹映画でデビュー。71年、『仮面ライダー』で一躍ヒーローに。数々の日本映画に主演しアクション俳優として映画界を牽引。84年にハリウッド映画『SFソードキル』に主演し、日本人初でS.A.G(全米映画俳優組合)に加入。武道家としても知られる一方、国内や世界数十ヶ国の紛争地域、難民キャンプで支援活動を展開してきた。

大自然の中で食べ物を得たり、遊んだりした 子どものころの生活が今の自分の原点でもあるという藤岡弘、さん。 故郷での暮らし、駆け出し俳優時代の生活、 そして紛争地域でボランティア活動を続けるうち備わった 住まいに対する価値観などもうかがいました。

食べ物を得るのも遊びもサバイバル。故郷の大自然に、生きる術を学ぶ

藤岡弘、さんの写真1
故郷での思い出を語る藤岡弘、さん

生まれたのは愛媛県の久万町(現:久万高原町)。四国八十八ヶ所札所巡りの44番目として知られる、大宝寺がある町です。父は警察官だったので、家族全員、駐在所に住み込みでした。道路に面して駐在所があり、その隣に居間や寝室、台所がある平屋の建物で、大きな庭もありました。庭ではニワトリを放し飼いにし、傍らには畑もありました。山へ行けば山菜、川へ行けば魚を獲る。それに父が狩猟免許を持っていましたから、山でイノシシを狩ったり、猟犬がウサギを捕えてくることもありました。もちろん、それらが食料になりましたから、自給自足に近い暮らしでしたね。
もちろん遊ぶのも山や川です。昔は山に野生化した犬がたくさんいたものですが、ある日、どうしても子犬が飼いたかった私は、山へ行って親犬がいない間に子犬を抱えそっと連れて帰ろうとしたんです。すると突然、親犬が現れてものすごい勢いで追いかけてきました。私は、一目散に逃げましたが最後は恐ろしくなり子犬を手放して山を下りてきた。そんな思い出もあります(笑)。
久万町から少し離れた西条市には母方の祖父母が暮らしていました。藁葺屋根の家で居間には囲炉裏がある、その雰囲気が好きで、よく遊びに行きました。囲炉裏で作ってもらった雑炊は本当においしかった。畑でとってきた山芋や、海の幸がたっぷり入った汁の中に、ごはんとその日の朝産まれた卵を入れ、最後に梅干しをのせてふぅふぅ言いながら食べるんです。今ではむしろ贅沢な食べ物かもしれませんね。

高校卒業後は上京して自活。新聞紙で寒さをしのぐことも

藤岡弘、さんの写真2
上京したころを振り返る藤岡弘、さん

小中学生のころは父親の仕事の都合上、県内で転校を繰り返しました。当時は家にテレビもありませんでしたから、娯楽といえば映画くらい。川でうなぎを獲って料亭に売ったり、稲刈りやみかん狩りなどのアルバイトで小銭を貯めては映画館によく通いました。フランス映画やアメリカ映画が入ってきたころで、時代劇の全盛期でもありました。そうやって映画の世界にどんどん魅了され、次第にスクリーンの向こう側へ行きたいと思うようになったんです。私は一度興味を持つとまっしぐらになってしまうタイプなんです。映画の道に進むしかないと決心したのはこのころです。
「俳優になるなら東京だ」と思い、高校卒業後は上京して俳優養成所へ入りました。実家を出たときの所持品は武道着と下着、カメラ、時計、そしてアルバイトで貯めた現金3万円だけ。最初は大学に通いながら俳優養成所にも通おうなどと、甘い考えもありましたがとんでもない。持っていった3万円はすぐになくなりました。当然、お金を稼がなくてはならないのでアルバイトに明け暮れる日々です。徹夜でクタクタなので養成所では居眠りしてしまい、「眠いなら邪魔だから引っ込んでろ!」と言われることもしょっちゅう。出席日数も足りない、なかなか卒業ができない劣等生でした。
住み込みのアルバイトを始めてからは、ようやく4畳半の部屋で生活をしました。とはいえ風呂はなく、トイレも炊事場も共同。歩くと廊下がギシギシと鳴り、冬は戸に新聞紙を詰めて隙間風をしのいでいました。毛布1枚しか布団がなかったので新聞紙を敷いて押入れで寝ていました。新聞紙は防寒に大活躍するんですよ。ほかに部屋にあるのは、どんぶり1つと鍋、やかん、湯呑みだけ。アルバイトのお金が入ったときには、インスタントラーメンを食べることが楽しみで。そうやって自活をしていました。

こだわりの家も終の棲家ではない。これからも状況に合わせて移動をしていく

藤岡弘、さんの写真3
住まいに対する考えを話す藤岡弘、さん

オーディションを受けては落ちる。その繰り返しでしたが『仮面ライダー』で火がつくと次々と仕事が決まっていきました。そして刑事ドラマ『特捜最前線』に出演しているころ、やっと少しお金に余裕が出てきたので、中古の小さな一軒家を購入しました。私は、高台にあって風通しが良く、朝起きたら太陽の光がぱーっと入ってくる自然豊かな故郷を彷彿とさせるそんな環境が憧れだったのですが、最初に買ったその家は、残念ながら民家が密集していて見晴しも良くありませんでした。
ある日、久万町から上京して同居していた母が「良い場所が売りに出ているから見に行こう」と言うのです。行ってみると、何とそこは、私が以前「こんなところに家を建てたい」と漠然と憧れていた場所だったんです! まさか売りに出ているとは思わなかったので、その偶然には運命的なものを感じて、迷わず購入しました。
建てる家も風の流れと空気、自然光を大切にし、まず、万が一の災害にも耐えられるように、基礎はとにかく頑丈に固めています。それから道場を造り、母がお茶の先生だったので茶室も造りました。富士山が見えるテラスも自慢です。しばらくして、自分の設計で、光が燦々と入る全面ガラス張りのサロンも造りました。壁や戸の色も自分で塗り替えますね。家の中に置いてあるのは、海外で手に入れた思い出の品です。こんな風に好きなように家を設えていくのは、男のロマンなんですよ(笑)
ただ、同じ場所にずっと住むという概念はありません。というのも、私は紛争地域などを世界100ヶ国以上周ってきました。そして分かったことは、日本がいかに平和な国であるかということ。永遠に自分の家があって安心して暮らせる国は世界的にみると本当に少ないのです。常に危機と隣合わせの国では明日はそこに住めないかもしれない。住めなければ、次はどこへ行くべきかを判断して生きるために移動しなくてはならないんです。私にもそういう考えが自然と備わっています。だから、これからも常に自分に必要な土地、家を見極めて住むべき場所を選んでいくと思います。

こぼれ話

藤岡さんは、約40年に渡り、メンバーと共に紛争地域や難民キャンプなどの救援・支援活動を展開してきました。「困っている人がいれば助けるのが当たり前。そう育てられてきましたから最初はボランティアという言葉すら知りませんでした。私はこの活動を通して世界中の悲惨な情勢を見てきました。日本に帰ってくればほっとしますが、その反面、世界の状況を知らな過ぎることにも不安も覚えるんです」。

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