Vol.35 岡崎朋美さん

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Vol.35 岡崎朋美さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.35 2015/4/21更新

『富士山は私にとって特別な存在。
一望できる部屋から、オリンピックを目指しました。
』 岡崎朋美さん

『富士山は私にとって特別な存在。
一望できる部屋から、オリンピックを目指しました。
』岡崎朋美さん

profile
岡崎朋美(おかざきともみ)
1971年北海道生まれ。元スピードスケート選手。高校卒業後、富士急行に入社しスケート部に所属。94年リレハンメル五輪から2010年バンクーバー五輪まで5大会連続冬季五輪に出場。98年の長野五輪では日本女子短距離として初のメダルを獲得。朋美スマイルで一躍人気者に。2013年に現役を引退。

富士山麓でトレーニングを重ね、 5大会連続オリンピック出場を果たした 岡崎朋美さん。スケートと出会った故郷のこと、 世界で戦い続けた現役時代の暮らし、 引退後の今の生活についてもうかがいました。

小学4年生で本格的にスケートを始める。上達しない自分が悔しくて、諦めずに練習を続けた日々

岡崎朋美さんの写真1
子どものころを思い出す岡崎朋美さん

私は、北海道知床半島の付け根に位置する清里町で生まれ育ちました。酪農が盛んな町で、私の実家も酪農を営んでいます。家の周りには畑が広がり、冬は一面雪で真っ白です。ヘビやイタチ、キツネなどが道を横切って出てきたりしますし、夏には近くを流れる川で魚を釣って遊んだりしました。そんな、大自然に囲まれた場所です。
スケートを本格的に始めたのは、小学校4年生のときです。それまでは学校の授業で滑る程度だったのですが、スポーツ万能の女の子が転校してきたんです。その子の影響で私もスケート少年団に入りました。私の両親は仕事が忙しかったため練習についてくることができなかったのですが、彼女のお父さんが私のことも一緒に面倒を見てくれて、夜遅くまで練習に付き合ってくれました。
その後、小中学校と少年団でスケートを続けていたのですが、私はなかなか上達しなかったんです。メキメキと頭角を現し、好成績を出す同級生もいる中、目立つ存在ではありませんでした。それでも辞めることなく続けていたのは、上手くならない自分がすごく悔しかったのだと思います。負けず嫌いでしたからね。

高校進学後は親元を離れ下宿生活。厳しさがあったからこそ繋がったスケート人生

岡崎朋美さんの写真2
下宿生活を振り返る岡崎朋美さん

負けず嫌いではあったものの、当時はがむしゃらにスケートをやりたいという気持ちはありませんでした。でも中学卒業後はスケートが強い釧路の高校へ進学を決めました。スケートをやるために、というのはもちろん嘘ではないのですが、親元を離れて一人で生活をしたいというのが本音です(笑)。私は3人兄弟の末っ子なのですが、兄はその頃学校へ通うために家を出ていましたし、姉も自立していました。だから、私も家を出て自由に暮らすことに憧れがあったんです。ところが、いざ下宿生活を始めると下宿所のおじさんとおばさんが両親よりずっと厳しくて、「あれ?想像と違う」と思いました(笑)。門限は早いし、食事は必ず正座でいただき、出た料理を残すことは許されず。どんぶりでご飯が出るときもあって、無理して食べ続けたら今度は体重が増えてしまい、監督からは体重を落とせと言われる始末(笑)。掃除や食事当番もあり、実家で過ごすよりも厳しくしつけられたと思います。でも、当時の私はスケート以外にもいろいろなことをやってみたいという気持ちがありましたから、他に楽しいことがあればスケートから離れてしまったと思います。今振り返ると、その厳しい環境があったからこそ、その後のスケート人生があったのだと思います。
当時は私を含め4人の下宿生がいて、六畳一間を2人でシェアしていました。まだ慣れない1年目はみんな1人でいるほうが気楽で、食事が終われば2階の自分の部屋に閉じこもっていました。でも、おじさんが「2階に閉じこもっていないで、降りてきなさい」と言うものだから、最初はしぶしぶ部屋から出ていきました。それを機に次第に茶の間でみんなと話すようになり、下宿生活にも慣れていきました。お二人の厳しさも愛情があってのことですし、そこで3年間過ごせたことに感謝していますね。
高校時代は練習に明け暮れたものの、成績もぱっとせず、卒業したらスケートを辞めて地元へ戻るつもりでした。そう思っていた矢先、富士急行スケート部の監督が声を掛けてくれたんです。自分は、もっとできる。自分の能力をもっと試したいという気持ちもあって、再度挑戦する決意を固めました。

オリンピック選手になるために、生活を一新。目の前にそびえ立つ富士山が、心の支えに

岡崎朋美さんの写真3
現役時代について話す岡崎朋美さん

富士急行に入社後は、山梨県富士吉田市へ移り、寮に入りました。これまでに行ったこともない土地ですから、私自身はもちろん、両親も不安だったと思います。練習や生活サイクルがガラリと変わったことに加え、北海道とはかなり異なる気候に慣れるのも大変でした。特に夏は湿度がまったく違います。湿度が低い北海道で過ごした私にとって、ムシムシとした暑さは体に堪えました。 寮は一人部屋でした。家具はベッドとカラーボックスがあるくらいで、ベッドから手を伸ばせば必要なものに届くほど狭い部屋でしたが、実家では姉と、高校のときはチームメイトと部屋をシェアしていましたから、初めて自分だけの空間が持てたことは嬉しかったですね。 4年ほど寮生活をしたあと、22歳のときに一人暮らしをすることにしました。きっかけはリレハンメルオリンピックに出場したあと、「もう一度、オリンピックに出たい」と強く思ったからです。一人部屋とはいえ、寮ではどうしても完全にリラックスはできないことを感じていました。また、自分で食生活を管理したいという考えもあり、次のオリンピックを本気で目指すために、まずは寮を出ることを決めました。練習場に通いやすい物件を自分で探し、そこから次のスタートを切りました。
その後、長野オリンピックに出場したあと河口湖の近くに引っ越しました。部屋を探すときの条件は部屋から富士山が見えること。山梨県に出てきてから富士山は、私の心の支えだったのです。辛いときや淋しいとき、堂々とそびえ立つ富士山を見ていると自分の悩みが小さく思えてくるんです。遠征も多く、ほぼ"寝に帰る"だけの部屋でしたが、美しい富士山が目の前に広がる自分の部屋は、どこよりもほっとできる場所でした。引退をするまでの約15年間はその部屋で暮らしました。
2007年のトリノオリンピック後に結婚しましたが、私は山梨が拠点だったので東京の会社に勤める主人とはほぼ別居でした。引退した今は、4年前に生まれた娘とともに東京で3人で暮らしています。今は子どもが中心の生活ですね。これからはママ友を家に招いたり、娘の友達が遊びにくる機会なども増えてくると思います。現役時代は掃除もままならなかったですが、家の中をきれいにしておかなくちゃって思いますね(笑)。

こぼれ話

山梨県で暮らしていたときの岡崎さんの部屋から見えた富士山の様子。「山梨には25年ほど暮らしていましたが、富士山はあってあたり前という存在にはならず、いつも特別でした。毎朝、ドンとそびえ立つ富士山を見て『今日は天気がいいな』とか『雲がかかっているから、雨になる』など、その日の天気を確認したり、季節の移ろいを感じていましたね。」

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