Vol.38 麻丘めぐみさん

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Vol.38 麻丘めぐみさん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.38 2015/7/21更新

『今は豊かな1人暮らしをするための準備期間
そのために、いらないものは潔く捨てています』 麻丘めぐみさん

『今は豊かな1人暮らしをするための準備期間
そのために、いらないものは潔く捨てています』麻丘めぐみさん

profile
麻丘めぐみ(あさおかめぐみ)
1955年大分県生まれ。3歳から子役・モデルとして活躍。17歳で「芽ばえ」でレコードデビューし、同年日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。73年に発売した「わたしの彼は左きき」が大ヒットし、70年代を代表するトップアイドルに。76年に芸能界を引退するが、83年に復帰し、その後は女優として、舞台、テレビ、バラエティーなどで幅広く活躍。

3歳から芸能界で活躍し、 多忙を極めてきた麻丘めぐみさん。 トップアイドルゆえに、自分の意志に反して 何度も引っ越しをした経験も。 大阪での暮らしや上京後の生活、 今後の住まいプランまでうかがいました。

生まれてすぐに大阪に引っ越し。昭和の公団住宅でモダンな暮らし

麻丘めぐみさんの写真1
子どものころを思い出す麻丘めぐみさん

私は大分県生まれですが、生後半年のときに父の仕事の都合で大阪に移り住みました。ですから、大分での暮らしの記憶はありませんが、父方の先祖は日出藩の家老だったため、実家は日出城の二の丸。貴重な建物で壊すことができなかったので、祖父母とともに城に住んでいました。夏休みなどにはよく遊びに行きましたが、家の中には槍や刀が置いてあって明らかに普通の家とは違います。トイレは侍が袴を脱ぎ着するためのスペースが手前にあるので、6畳と異様に広い。幼い私にとっては、ただただ怖い家でした。
大阪に移った昭和30年は、日本は高度経済成長期で、鉄筋コンクリート造りの公団住宅があちこちに建てられ始めた頃です。大阪の安孫子にもズラリと建設され、父が入居の応募をすると運よく当選したので、私たちはそこに移り住んだのです。
2DKの部屋に、父、母、姉と私の4人で住んでいました。襖で仕切られた2部屋が繋がっていて、キッチン、ベランダ、木のお風呂がありました。コンパクトですが当時、鉄筋コンクリートの団地に住むことは憧れでもありました。敷地内にはブランコなどの遊具があり公園のようになっていて、同じ団地に住む友達とよく遊びましたね。日本の暮らしが大きく変わっていった時代を象徴するようなモダンな暮らしでした。

姉の夢を叶えるために上京。モデルの仕事をしながら家計を支えることに

麻丘めぐみさんの写真2
上京したころの話をする麻丘めぐみさん

4つ年上の姉が児童劇団に入っていたことがきっかけで、私も劇団に入り、3歳のときに子役としてデビューをしました。当時は子役の仕事がたくさんあって、すごく忙しかった。仕事に行くときは母が付き添ってくれて、帰りは仕事を終えた父が駅まで迎えに来ておんぶされて帰ったことをよく覚えています。小学校に入ると仕事で休むこともしょっちゅうで、遠足などの学校行事にもあまり参加できませんでした。子どもながらも、よく働いていましたね。
私が小学校5年生のときに、中学生だった姉が歌手を目指して上京をしました。ところが、姉が厳しい下積み生活で倒れ、急遽、姉のサポートをするために母と私も東京に移り住みました。私は芸能界に入りたいという夢があったわけではなく、姉の真似をして仕事を始めましたが、姉は歌手になりたいという強い思いがありました。家族全員がその夢を叶えたいと思っていたので、我が家は姉が中心の生活でした。姉のためならばと私は転校し、大阪の事務所から東京の事務所に移籍したのです。
上京して最初に住んだのは杉並区の1DKのアパートです。お風呂がなくて、毎日近くの銭湯に行っていました。その後、姉はデビューをしたものの、その給料と父からの仕送りだけで生活をしていくのは楽ではありませんでした。母は姉をサポートするために仕事はしていませんでしたから、小学生ながら「だったら私が働いて、お風呂のある部屋に引っ越そう」と決意をして、モデルの仕事を始めたんです。中学生のときには晴れてお風呂付きのアパートに引っ越すことができました。
中学生になるとレコード会社の方から、「歌手をやらないか」とお声掛けいただいたのですが、なかなか売れない姉を見ていて歌手の大変さを実感していました。私には無理だろうと、ずっとお断りしていたのですが、結局断り切れなくなり歌の世界に足を踏み入れることになったんです。すると予想に反し瞬く間にヒットしてしまい、数々のテレビに出演するようになりました。それからというもの、3ヵ月ごとに引っ越しです。当時は、アイドルの部屋を公開する番組や雑誌の企画も多く、ファンの方にすぐに住まいがばれてしまったんですね。人が集まってしまうと近隣の方々に迷惑をかけてしまうので、引っ越しせざるをえませんでした。母と姉と3人で暮らしていましたが、私は多忙で寝るために帰るだけ。引っ越しもすべて母と姉任せでした。

これからも安全で快適に住むために。リフォームや物の整理を

麻丘めぐみさんの写真3
現在の生活について話す麻丘めぐみさん

21歳で結婚をして、同時に芸能界も引退しました。もともと結婚したら引退しようと思っていましたし、家庭と仕事の両立は私には出来ないと思っていたので、未練はまったくありませんでした。
仕事を辞めてからの専業主婦生活は本当に楽しかったですね。1日をすべて自分と家族のために使えるのですから、開放感でいっぱいでした。同時期に芸能界を引退した友人たちと一緒にスーパーに行ったり、夕食会をしたりして、さまざまな”初体験”に心が躍っていました(笑)。
結婚をして2年後には娘も生まれました。結婚をしているときは主人の仕事の関係で都心に住んでいましたが、当時から子どもは自然豊かな環境で育てるべきと感じていたので、離婚と同時にもっと自然のある場所に住まいを構えることにしました。東京でありながらも、身近に木々があり鳥の声も聞こえるような場所に一軒家を建て、母と娘と3人で暮らしをスタートしました。
現在は、母は地元の大分に戻って暮らしています。娘は今、フランスに留学し、私は1人暮らしとなりました。最初は、初めての1人暮らしにウキウキしていたのですが少し経つと淋しくて、淋しくて(笑)。娘が帰ってきたときは、本当に嬉しいですね。
とはいえ娘もいずれ結婚して家を出れば、私は本当に1人になるわけです。今後の住まいについては、いろいろと考えました。1人で暮らすのであれば、マンションのほうが便利という意見も聞きますが、私はこの家で暮らそうと決めています。そして、ここで豊かな老後を過ごすために、少しずつ準備を始めたところです。建ててから20年も経っている家ですから傷んでいるところも多いので、玄関やベランダなどから少しずつリフォームもしています。そして、いらないものを潔く捨てて、家の中をとにかくシンプルにしようと思っています。
60代を目前にした今、仕事もプライベートも何か特別なことをやろうとは考えていません。あとは、60年の人生で培ってきた仕事や人間関係が自然と人生の流れを導いてくれると思うのです。その流れに身を任せていきたい。そのためには何でも受け入れられる状態にしたい。この家にどんな物や人がやってきても受け入れられるように、シンプルにしたいと思っています。

衣装:Yukiko Hanai
ABISTE(アクセサリー)

こぼれ話

現在は、フランスに留学している、娘のひとみさん(アーティスト名:ひとみこぱん)は水彩画家として活躍中。
防腐剤を使わない手作りの絵具を用いて描かれた絵は、透明度が高く、発色が鮮やか。心温まる優しいタッチの作品で注目を集めて、たびたび、個展なども開催されています。
麻丘さんのご自宅にも、ひとみさんの絵がいくつも飾られているそうです。

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