Vol.43 安藤和津さん

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Vol.43 安藤和津さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.43 2015/12/15更新

『将来は高知で暮らすのもいいし、イギリスにももう一度住みたいんです。』 安藤和津さん

『将来は高知で暮らすのもいいし、イギリスにももう一度住みたいんです。』安藤和津さん

profile
安藤和津(あんどうかず)
1948年東京都生まれ。上智大学卒業後、イギリスに2年間留学。その後、CNNのメインキャスターを務める。俳優・映画監督の奥田瑛二氏と79年に結婚。現在は、エッセイストやコメンテーターとしてテレビ番組に出演する。

思い立ったら新しい家を買ってしまう、そんなお母様とともに、 都内の一等地で引っ越しを重ねてきたという安藤和津さん。 女手ひとつで安藤さんを育ててくれたお母様との暮らしは、 ときに楽しく、ときに窮屈でもあったそう。 イギリスへの留学、俳優・奥田瑛二さんとの結婚後の暮らし、 そして今後のプランもうかがいました。

料亭での暮らしから、都内の一等地を転々と。学生時代はたくさんの友達が集まる場所に

安藤和津さんの写真1
子どものころを振り返る安藤和津さん

私は、東京生まれ東京育ち。生粋の江戸っ子です。母が柳橋で日本料亭を営んでいたので、幼いころはその2階の一角に母と私の住まいがありました。料亭は、柳橋の一等地にあたる隅田川沿いにあり、とても立派な造りでした。住居部分には60年ほども昔にもかかわらず、すでに洋式のトイレがあるほど。当時としては、かなり珍しかったと思います。
私が小学校にあがる少し前に、母は料亭の真向かいに土地を買って家を建てました。私と母、母方の祖母と3人の叔父、叔母で暮らすための家です。さらに向かいの料亭には20人ほどが住み込みで働いていましたから、かなりの大所帯でした。私が中学生になると今度は千代田区の麹町に一軒家を購入しました。母は「娘の育つ環境として、料亭街は好ましくない」と思ったのでしょうね。そのころには家族構成も変わっていたので、私と母、寝たきりだった祖母と祖母の面倒を見てくれていたお手伝いさんがいて、4人で新しい家へと移りました。麹町の家は椿の花が咲き誇る素敵な庭がありました。私はそれを見るのが本当に楽しみだったんです。都心だったこともあって、学生時代は私の友達がいつも遊びに来ていました。母も賑やかなのが大好きだったので、一緒に混じっておしゃべりをしていたのを思い出します。
そして、私が20歳を迎えるころ、母は突然、「これからは、あなたの花嫁修行に付き合うわ」と言い出して料亭を畳んでしまったんです。それと同時に港区にマンションを購入し、麹町から引っ越すことになりました。当時、マンション自体が珍しい時代でしたが、港区のマンションはバスルームが2つもある物件。しかも、周りにはまだ高いビルが建っていなかったので、富士山も東京タワーもよく見える、最高の立地でした。母も終の棲家と思って決めたのでしょうね。

大学卒業後はイギリスへ留学。ルームシェアをしながら生きる術を学ぶ

安藤和津さんの写真2
イギリス留学を思い出す安藤和津さん

仕事を辞めた母は、私の母親業に力を入れ始めました。それまでは、何をしていてもおかまいなしだったのに、突然、門限は厳しくなるし、私が外出するときは誰とどこに行くかすべてチェック。行動もほぼ共にするほど、べったりでした。そんな母が突如、「パパの遺言だから、あなたはイギリスに留学しなさい!」と言い出したんです。そのころ、ボーイフレンドもいて毎日楽しく過ごしていた私は、留学なんてまったく興味はありません。ところが、母は勝手に通う学校もホームステイ先も決めてしまい、私は追い出されるようにイギリスへ行きました。
渡英が冬だったこともあって、現地はもう毎日寒くて、寒くて。食べ物も口に合わず、いつもお腹を空かせていました。おまけに、ホームステイ先で用意されたのは、小さな子ども部屋。日本人は小柄だから子ども部屋で十分と思われていたようで、腕を広げれば両手のひらが壁に付くほどの空間。ベッドも頭から足先までギリギリ収まるくらいで、何から何まで窮屈な暮らしだったのですが、それでも私の気分は晴れやかだったんです。しぶしぶイギリスに来たものの、いざ日本を離れると母の束縛からの解放が、この上なく快適でした。"自由を手に入れた!"という感じでしたね。
イギリスには2年半ほどいました。最初のホームステイ先はすぐに出てしまい、その後は現地で仲良くなった友達と大きなアパートメントを借りてルームシェアをしていました。私以外に日本人の女性が1人、あとはイギリス人やイタリア人が3人。そこでは、みんなでお金を出し合って毎日の生活をやりくりしました。恥ずかしい話ですが、イギリスに行くまで洗濯も掃除もお手伝いさん任せでほとんどしたことがありませんでした。でもここでは、洗濯だって買い出しだって、自分たちでやらなければならない。お金がなければ食材も買えないし、無駄遣いをすれば家賃も払えなくなってしまう。イギリスに行って、初めて生活の術を学んだんです。"人として生きている"という感じがしました(笑)。料理も上達した私はキッチン担当になり、毎日みんなのご飯を作っていました。食費が足りなくなれば、具なしのカレーなんてこともありました。無計画にお金を遣っていたら、暮らせないことがよく分かりました。

結婚後は同じマンション内で移動も。将来は都内を離れる選択も

安藤和津さんの写真3
現在の暮らしについて話す安藤和津さん

留学して2年半ほどしたときに、母が体調を崩してしまったので私は日本に戻りました。そして、再び港区のマンションで母との暮らしが始まりました。
その後、あるパーティで主人である奥田と出会ったのですが、当時の彼は仕事もなければ、お金もないし、住む家もない。我が家に遊びに来るようになったものの、結婚相手などには思いも及びません。そんなある日、奥田が高熱を出して我が家で倒れたんです。歯茎にバイ菌が入ったのが原因だったのですが、かなり重症だったため、やむを得ずうちでしばらく看病をすることになりました。すると母が突然、「あなたたち、結婚したら?」と口にしたんです。母にしてみても理想の結婚相手とは真逆だったはずなのですが、奥田のことを看病している私の姿を見て、この二人なら上手くいくかもしれないと思ったらしいのです。それに、よく見れば鼻は高く、顔立ちもきれい。そして、何より嘘をつかない正直な性格が気に入ったようです。
結婚後はこれまで住んでいたマンションの一番下のフロアにある1LDKの部屋を借りました。当時は私も彼もほとんど仕事はなかったので、最初は「半年経って自分たちで払えなければ、経済状況に見合ったところに移る」という条件で互いの両親が家賃を出してくれました。ところが不思議なことに、ほぼ無職だった私たちに、結婚したら突然仕事が舞い込んできたんです。あれよあれよという間に大忙しになり、半年後には自分たちで家賃も払えるようになりました。子どもが生まれてその部屋が手狭になったので、母のところに戻り、さらに2人目が生まれたときは同じマンション内で別の部屋に引っ越しました。その後も、同じマンションの中で4∼5回引っ越しています。というのも管理人さんと仲良くなったおかげで、いい部屋が空くと教えてくれるのです。それで同じ建物の中で、違う間取りや景色が楽しめるところへあちこち移動しました。それが、すごく楽しかったですね。
その後、病気を患った母は寝たきりになってしまうのですが、自然が大好きだった母に緑のある景色を見せてあげたいという思いがあり、庭付きのマンションに家族で引っ越しをしました。母の寝室からは和風の庭園が見える素敵な部屋でした。お医者様にはあと1週間と言われた母でしたが、新しい住まいで1年以上も過ごすことができたんです。母も喜んでくれたのではないかなと思います。8年前に母が亡くなり、その後引っ越したのが今の家です。古い一軒家を色々リフォームしました。何より庭があるのが嬉しくて。これまでマンション暮らしだった私たちにとって、歳をとってからの一軒家は慣れるのに大変です。ゴミは収集日にしか出せないし、重い洗濯物を持って階段を登ったり降りたりしなくてはなりませんが、そのおかげか体力がついてきました。いずれ、体力的に本当に辛くなったらマンションに引っ越すことも考えるかもしれませんし、高知県に移住した長女の近くに住むかもしれません。山も海も川もあって食べ物も美味しいし、人も陽気で私の感性にぴったり!
すごく気に入ってます。第二の故郷とも言えるイギリスにもう一度住みたい、という思いもありますが、孫の世話もありますし、さてどうなることやら(笑)。

こぼれ話

都心の暮らしであっても、「土や花がないと嫌」という安藤和津さん。現在のご自宅の庭では、草木をたくさん育てているそうです。「以前の住まいでは、家庭菜園でゴーヤや茄子、きゅうりなども作っていて、高く売れるんじゃないか、と思うくらい、立派な野菜が獲れました」。

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