Vol.27 赤井英和さん
Vol.27 2014/8/19更新
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赤井英和(あかいひでかず)
1959年大阪府生まれ。高校1年でボクシングを始める。インターハイ優勝、アジアジュニア選手権優勝。近畿大学在学中にプロへ転向し、12連続KOという日本記録を樹立。"浪速のロッキー"と親しまれる。現在は、ドラマ、映画、舞台などで俳優として活躍する一方、近畿大学ボクシング部総監督を務める。
リビングの窓からは多摩川の花火が見えるという 赤井さんのご自宅は、閑静な住宅街の一角に建つ一軒家。 最初に見たときは誰もが驚くほど荒れていたそうですが、 なぜか強くひかれた物件だったのだそう。 大阪のご実家での暮らし、今のお住まいに出会ったきっかけや こだわりなどもうかがいました。
家業を手伝う毎日から 責任感や感謝する気持ちを得る
生まれ育ったのは大阪の西成区。中でも私の家は、あまり"ガラ"の良くない地域として知られている、あいりん地区のど真ん中にありました。1960年代ですから今より治安も悪かったですし、機動隊と労働者がぶつかり合うなんてこともしょっちゅう起こり、子どものころの私は、家の窓からその様子をよく見ていました。
私の家は4軒の長屋が並ぶ一番端にあり、家の向いは駄菓子屋で隣は銭湯でした。屋根の上には日当たりの良い物干し場があり、私がまだよちよち歩きの頃に洗濯物を干す祖母の足元で遊んでいて、柵の隙間からストーンと下に落ちてしまったことがあったそうです。すると、ちょうど隣の銭湯へ行こうとしていたおばちゃんの洗面器の中にポーンと入ったそうなんです。私は覚えていないから「ほんまかいな!」と思っていましたが、両親や近所の人からは「あのおばちゃんは命の恩人やぞ」とよく言われたので、本当なんでしょう。そんな下町情緒たっぷりの場所です。そこに、祖母、両親、姉と兄、私の6人で住んでいました。
実家は漬物の製造販売をしていて、小さいときから兄も姉もみんな家業を手伝っていました。野球をやっていても何をやっていても、店の片付けの時間になると帰らなくてはいけません。それが当然だと思っていましたし、仕事の手を抜いたり、時間を守らなければ父に怒られました。厳しかったですが、ただ、家族の一員として仕事を与えられてきたので「自分がいないと成り立たない」という気持ちもあり、自然と責任感が生まれましたし、家族との絆も感じていましたね。大人になってからも当然そのことは体に染みついて、そのおかげで今があると思っています。両親のことは尊敬していますし、とても感謝していますね。
東京と大阪の往復生活を続け その後、上京をすることに
小学校の頃は柔道、中学の頃は空手を習っていました。ボクシングを始めたのは高校に入ってからです。卒業後は近畿大学へ進学して在学中にプロへ転向しました。26歳でプロを引退したあとは、芸能界の仕事をさせていただくことになりました。仕事はほぼ東京でしたが、私は実家が好きだったので大阪から通い続けていたんです。その間に今の妻と東京で出会い、結婚。妻のお腹には子どもがいたのですが、金銭的に余裕がなかったので、実家に住むことになりました。当時、実家は道路を作るという理由で、それまで住んでいた場所から立ち退きになり、すぐ近くに建て替えをしていました。そこの2階で私と妻は暮らし始めたんです。
しかし、私はドラマの撮影やバラエティー番組に出たりと、仕事でほとんど東京にいましたから、妻は、嫁に来たというよりも、赤井家の娘になりに来たような生活。だったら東京に住んだほうがいい、ということになり、その後上京を決めました。
最初は広尾の賃貸マンションに住みました。上京したてで東京にはまったく土地勘がなく、どこに住んでいいかも分かりません。たまたま知り合いが広尾に住んでいたので、じゃあ、そこに住もうと。当初は3LDKに住んでいたのですが、長男の誕生をきっかけに、同じマンションの隣の棟にある4LDKの部屋に移りました。広尾といえば閑静な高級住宅街ですが、当時はそんなことは露知らず。私に似つかわしくなかったでしょうね(笑)。
私も妻も直感で
数年間広尾に住んだあと、長女の幼稚園入園をきっかけに住み替えることにしました。幼稚園から大学まで一貫教育の学校だったので、通いやすい場所で家を購入することにしました。それが今の家です。住み始めて17年ほどになります。
場所ありきで不動産会社の方に見せてもらっていた物件の一つですが、その方も半信半疑で連れてきたようですよ。というのも最初に物件を見に来たときは、腰の高さくらいまでのゴミが一面に広がっているし、庭も手のつけようがないくらいに荒れていて、それはすごかった(笑)。でも、なぜか私も妻も直感で「ここが良いよね」と購入を決めていました。不動産会社の方には「ここは、かなり大変ですよ」と言われましたが、建物の基礎はしっかりしているしロケーションも広さも理想的。なんとかなるだろうと、自然と「かまへんよ」と口にしていました。バブル時代の建物で基礎はしっかりしているので、建物の骨組みに手を入れることはなく、じゅうたんだったところをフローリングにしたり、壁紙を貼り替えたりました。リフォームの費用は決して安くありませんでしたが、手をかけた分、愛着もひとしおです。
私のお気に入りの場所は自分の書斎です。畳やちゃぶ台がある、こじんまりとした和室で大阪の実家を再現したんです。妻いわく、この家のモダンで瀟洒な雰囲気は私に似合ってないそうですが、この書斎にいる時だけはしっくりくるそうですよ(笑)。
こぼれ話
自宅には、地下倉庫だった場所を改装したというジムも。「ハワイに留学中の息子が、夏休みなどで帰省したときはここで練習します」と赤井さん。ご自身と同じボクサーの道を歩むことを決めた長男・英五郎さんとともに、2016年のリオオリンピックの大舞台を目指しています。
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