Vol.49 ピーターさん

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Vol.49 ピーターさん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.49 2016/6/21更新

自分の家で過ごす時間が一番幸せ。「早く帰りたい」、いつもそう思っています。 ピーターさん

自分の家で過ごす時間が一番幸せ。「早く帰りたい」、いつもそう思っています。ピーターさん

profile
ピーター/池畑慎之介(ぴーたー/いけはたしんのすけ)
1952年大阪府生まれ。69年ATG映画『薔薇の葬列』でデビュー。同年『夜と朝のあいだに』でレコードデビューし、日本レコード大賞最優秀新人賞、ゴールデンアロー新人賞を受賞。85年に黒澤明監督作品『乱』に出演し、役者の地位を確立した。以後、歌手、俳優、タレントとして舞台、映画、テレビで活躍。父は、上方吉村流四世家元で人間国宝の故・吉村雄輝氏。

一時は四軒も所有していたほど、「家が大好きで、家のことばかり考えている」というピーターさん。今は海が目の前に広がる葉山の一軒家での暮らしを楽しみつつ、また次のステップに向けて新しい暮らしに夢を膨らませているそうです。そんなピーターさんの家への思いをうかがいました。

鹿児島や大阪の暮らしを経て東京へ。16歳で芸能界デビュー

ピーターさんの写真1
子どもの頃を思い出すピーターさん

生まれは大阪の宗右衛門町(そうえもんちょう)というところ。今は歓楽街ですが、昔は料亭が建ち並び、芸者さんが歩いていたり、人力車が行き来しているような場所でした。私はその中にある一軒の料亭で生まれました。
その後、両親が離婚をしたため、8歳のときに母方の故郷である鹿児島へ。そこで初めて、土に触れる生活を知ったのです。土の上で遊んだり、転んだりすることは、私にとっては新鮮な体験でした。家の前には海がどこまでも広がり、遠方には桜島が望める。まるで絵葉書のような美しい景色を見ながら育ちました。
鹿児島で過ごしたのは中学3年生の後半まで。進学に重点を置く学校に息苦しさを感じ、家出をして東京へ。その後大阪の父のもとで生活をすることになりました。半年ほど暮らしたものの、今度は父の元から家出。レールを敷かれ、干渉されるのが嫌だった私は、口うるさかった父との生活に耐えられなくなり、単身上京したのです。
上京後は、ゴーゴーボーイとしてクラブで働きました。その当時の住居は、クラブのボーイさんのアパート。押入れに布団を敷かせてもらって寝泊りしていましたね。でも、上京して3ヵ月後にはスカウトをしていただき、今にして思えばトントン拍子に芸能界デビューが決まりました。
初めて部屋を借りたのは広尾の1Kのアパートでした。当時から寝る場所はきちんとしたいという思いがあったので、その後仕事がステップアップするごとに、家も広いところへとグレードアップしていきました。

海を求めるのは幼少期の経験から。40歳のときに熱海に家を構える

ピーターさんの写真2
上京後の暮らしを語るピーターさん

芸能界に入り最初は都心に住んでいましたが、だんだんと自然が恋しくなり、都内でも大きな公園が近くにある、緑豊かな場所へと移動していきました。
10∼30代はずっと賃貸マンションで暮らしていましたが、40歳を目前にして、ふと「家を建てたい」と思い立ちました。それまでは、「住宅ローンに追われながら歌ったり、芝居をしたりするのはイヤ!」なんて思っていたのですが、あるとき友人から「もし支払えなくなったら、売ればいいだけ」と言われて、「なるほど」と肩の力が抜けたのです。そこで、家を建てることを決めました。
当時はバブルの真っ只中で土地の価格は、異常なほど高騰していました。そのため、都内で建てるとなれば、予算内で理想の広さを手に入れることはかなり難しい。それに「海が見えるところに住みたい」という強い思いもありました。海の匂いや波打つ音、そんな環境を求めるのは幼い頃、鹿児島で過ごした経験があるからだと思います。
予算内で理想の環境を手に入れるためにはどこに住めばいいのか。物件を探した結果、辿り着いたのが熱海でした。千葉や神奈川の湘南など、他の物件をいくつも見て回りましたが、決定的に心ひかれる家やロケーションには巡り会えませんでした。そんなときに、不動産会社の方が、熱海の山の上にある古い一軒家に連れて行ってくれました。
2階に上がり窓をガラっとあけた途端、「うわっ、ここ買う!」って、声を発していました。「この景色を誰にも渡したくない!」と強く思い、値段交渉もせずに、その場で手元にあった現金10万円を手付金として支払ったほど。山の頂上なので利便性はよくありませんし、静岡県ですから、東京の仕事場からも近くはありません。でも、そんなことは一切考えませんでした。それほどロケーションに惚れ込んでしまったのです。まさに衝動的な買い物でした。そして、土地をまっさらにして、新しい家を構えました。
仕事に脂が乗ってきたのも、熱海に家を建てた頃。ローンを抱えることで自然と責任感が出てきて、それが仕事にもいい影響を与えたんじゃないかな。私にとって家で過ごす時間は最高の贅沢であり、その家に帰ることは一日のご褒美です。結局、自分の家があることが原動力となり、仕事を頑張ることができるのだと思います。

生活の中で一番こだわるのは家。「帰りたくなる家」がコンセプト

ピーターさんの写真3
家に対する考えを話すピーターさん

52歳のときに、神奈川県葉山にも家を建てました。熱海の家は美しい海が望めるものの、山の上なので波の音や潮風までは感じることができません。だから、「もっと海を肌で感じられる場所に住みたい」という気持ちが強くなったのでしょうね。そんなときに、海からすぐ近くの土地が見つかり、家を建てることにしました。
葉山に家を構える少し前には父が亡くなったため、港区高輪にあった父の稽古場の家を受け継ぎリフォームをしました。その後、ハワイにも物件を購入していたので一時は家を四軒も持っていたのです。
一人暮らしにも関わらず、家を四軒も所有するなんてそうないでしょ(笑)。でも、それが私なりのお金の使い方。車にお金をかける人もいれば、衣服は妥協したくないという人もいる。その点、私は家が何よりも優先順位が高く、一番大切にしたいものなのです。
もちろん、家を建てるときはデザインも機能性もとことんこだわりますし、家で過ごす時間を何よりも大事にしています。外食することよりも家で料理をすることが好きですし、仕事が終わればいち早く家に帰りたいとも思いますね。だから、私は出不精ですよ。出不精になるくらいに家が好きってことだし、そう思える家にすることが私の家づくりのコンセプトというわけです。
でも、60歳を前に少しずつ変わり始めました。体はひとつですし、今後四軒をすべて管理するのは大変。だから、家の断捨離をしようと思ったのです。まず、熱海の家を手放しました。次にハワイの家を売り、高輪の家は父の知り合いに譲りました。とはいえ、家に対する価値観が変わったわけではありません。この断捨離は、常に心地のいい住まいを求める私にとって、次のステップに移るための準備のようなもの。だから今もいい物件に出会うためのアンテナは常に張っています。
健康であればこの先15年くらいは、一人で掃除でも何でも不自由なくできると思っていますが、その後はどうしても体力が落ちて、足腰も弱くなるでしょ。そうなってから建て替えたり、住み替えたりするのではなく、将来も見据えて次の住まいづくりを考えたいと思っています。エレベーターを付けて暮らしやすい家に建て替えるか、便利なマンションを買うか……。どうするべきか、今すごく迷っていますね。
思い返してみれば上京したのが16歳。28歳のときは、当時一緒に住んでいた父の家を再び飛び出しました。40歳で熱海に家を構え、52歳で葉山にも建てました。どうやら12年ごとに住まいの転機が訪れているようです。そして、今年は12年の周期にあたる64歳。今の家に不満があるわけではないのですが、すでに気持ちは次に向かっていることを自分でもひしひしと感じています。その次は76歳。きっとまた新しい住まいを求める衝動にかられるのでしょうね。

こぼれ話

写真は、ピーターさんのご自宅のバスルームからの風景。窓越しには、葉山の青い海が広がります。「家を建てるときは、どこからどんな景色が見たいかを考えて設計します。マンションだと、ベランダに出ないと景色が見られないという物件も多いでしょ。ロケーションを最大限に生かすことができるのも、一軒家の魅力です」

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