Vol.44 山本浩二さん

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Vol.44 山本浩二さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.44 2016/2/2更新

『東京を拠点にしながらも、広島の家は残しています。ゆっくりするなら故郷がいいな、と思いますね。』 山本浩二さん

『東京を拠点にしながらも、広島の家は残しています。ゆっくりするなら故郷がいいな、と思いますね。』山本浩二さん

profile
山本浩二(やまもとこうじ)
1946年広島市生まれ。68年ドラフト1位指名で広島東洋カープに入団。チームの主砲として活躍し、プロ野球生活18年間で本塁打王4回、打点王3回など多くのタイトルを獲得。89∼93年と2001∼05年の2度、カープの監督に。また、第3回WBC日本代表監督を務める。14年に日本プロ野球名球会の理事長に就任。現在は野球解説者として活躍中。

家に求めるのは利便性という、山本浩二さん。現役時代、引退後、監督就任時、それぞれの仕事の拠点に合わせ、広島と東京の行き来を繰り返し、幾度となく引っ越しを重ねてきたそうです。これまでの住まいの遍歴からは、故郷であり、カープの拠点である広島への愛情や思いを感じます。そんな山本さんの住まいの履歴をうかがいました。

高校生のときに、念願だった自分の部屋も。上京後は、グラウンドに近い下宿所や寮で生活

山本浩二さんの写真1
子どものころを振り返る山本浩二さん

生まれは広島の佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)で、私が小学生の頃、父が広島市内に土地を借りて平屋の一軒家を建てました。建築関係の仕事をしていた父が自分で設計したのだと思いますが、当時では珍しい西洋風の造りで、風呂にはボイラーが入っているなど一歩先を行くモダンな家だった記憶があります。
私は兄2人と姉がいて、4人兄弟の末っ子。一番上の兄とは8つほど歳の差があり、次兄は3つ上です。幼いころ一人部屋はありませんでしたが、2段ベッドが並べられた子ども部屋があったことを覚えています。それから、敷地内には倉庫として建てた離れがあり、そこに3畳くらいの部屋がありました。その部屋が最初は一番上の兄の部屋となり、彼が進学で家を出ると次兄へ、そして私へと引き継がれました。そのため、高校に通う3年間はそこが自分の部屋でした。野球の練習で帰りも遅かったので、家にいる時間はわずかでしたが自分の部屋があるのは嬉しかったですね。
高校卒業後は法政大学へ進学するため、上京しました。最初の1年間は東京・目黒で、次兄と一緒に下宿生活をしましたが、翌年、次兄は社会人となり下宿所を出たので、同じタイミングで、私も大学のグラウンドがある神奈川県川崎市の武蔵小杉駅近くに引っ越しました。そこで1年間下宿をしたあと、大学の寮に入りました。当時は野球が生活のベースなので、住まいはグラウンドに近ければそれでよかった。部屋の中に凝ったりしたことは、まったくありませんでしたね。

プロになると同時に、地元・広島へ。寮、実家、アパートを経て一軒家に

山本浩二さんの写真2
広島での生活を思い出す山本浩二さん

大学卒業後、広島東洋カープに入団すると同時に地元・広島に戻りました。入団後、最初は寮に入ることが球団の決まりだったため1年ほど寮生活をし、その後は実家に戻りました。 寮生活が嫌だったわけではないのですが、2人部屋だったり、いろいろと規制もあるのでなんとなく窮屈な感じはあったのです(笑)。実家は広島市内にあり、通うのに不便はないので、だったら戻ろうかと寮を出ることになったわけです。そして、実家で1年ほど暮らしたあと、結婚をし、グラウンド近くにアパートを借りて引っ越しました。2階建てのアパートで間取りは2DKだったと思います。
シーズン中はナイターが多いので、昼前くらいに起きて食事をしてから球場へ向かい、夜帰ってからは自宅でバットスイングをする生活。でも、シーズン中ゲームの半分は相手チームのホームに行きますし、秋にも冬にも約1ヵ月のキャンプがあるので地元を離れます。そのため広島にいられるのは、1年の半分くらいです。広島の家にいるときは、女房にピンポン球くらいに切ったスポンジを投げてもらい、よく、スイングの練習に付き合ってもらいました。 その後、広島市内にマンションを購入しました。最初に買った部屋は北向きだったため結露に悩まされ、すぐに売却。別のところを買って住み替えました。その後、子どもが生まれると手狭になってきたので賃貸に移り、プロ7∼8年目くらいで収入も増えたころ土地を買って一軒家を建てました。家を建てたときのこだわりといえば、リビングを2階にしたこと。食事をしたり、くつろぐスペースは隣の家に風景が遮られてしまう1階より、見晴らしのいい2階が良いじゃないですか(笑)。

引退後は東京と広島を行き来する生活。仕事に合わせて、何度も引っ越し

山本浩二さんの写真3
今の暮らしを語る山本浩二さん

1986年、40歳のときに現役を退きました。引退する少し前に、都内で建築中のマンションを購入し、引退した翌年にそこが完成しました。引退後は東京での仕事が多くなったため、そこで生活をすることになりましたが、当初はそれを見据えて購入したわけではありませんでした。自分が住むかどうかは別として資産として手にしておくことは悪くないのではないかという思いで購入したのです。引退後、1年くらいはそこに住んでいましたが、89年にカープの監督に就任したので、また広島の家に戻りました。東京のマンションはそのまま残して、息子たちが進学で上京したときに暮らす住まいにしていました。
93年に一度監督を退き、その後2001年に再度監督になりますが、そのタイミングで今度は広島の住まいを買い替えました。3人の息子たちも家を出ていたこともあり一軒家を売却して、広島市の中心部にあるマンションを購入したのです。05年に監督を辞めると、また仕事のベースが東京に移ったので上京。その後、東京の住まいは利便性の良さを求めて、3回買い換えましたね。
こう振り返ると、何度引っ越しをしたことか(笑)。家自体に求めることは少ないのですが、利便性の良さにはこだわっています。生活のベースに合わせて便利なところへ次々と移り替えてきたように思います。
現在は東京を拠点に暮らしていますが、仕事で広島へ月に1∼3度は帰り、そのときは広島の家で生活をしています。月に数回の帰省ですが、故郷であることはもちろん、カープの拠点がある広島には、自分の家を残しておきたいという気持ちがあります。なので、今の時点では、その家を手放すつもりはありません。
今後のことは決めていませんが、老後、広島に戻るという選択肢もないわけでありません。広島の空港に着けば空気がおいしくて、やっぱり良いところだなと感じます。仕事をするには東京だけれども、ゆっくりするにはやはり故郷がいいとも思いますしね。

撮影協力/ホテル & レジデンス六本木

こぼれ話

2014年より「日本プロ野球名球会」の理事長を務める山本さん。
「日本プロ野球名球会」は、日本プロ野球の選手・元選手で、日米通算の記録が投手は200勝または250セーブ、打者が2000本安打以上の達成者のみが参加資格を得られる会員組織です。
「社会の恵まれない人達への還元と日本プロ野球界の底辺拡大に寄与すること」を目的として、国内外で少年野球指導や支援、チャリティーイベント、講演会などを開催しています。写真は、野球教室でバッティングのコツを教える山本さん。

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