Vol.50 寺田農さん

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Vol.50 寺田農さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話を伺いました。インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.50 2016/7/19更新

片づけをするのは、得意なんです。ものへの執着心もないから、すっきりしています。 寺田農さん

片づけをするのは、得意なんです。ものへの執着心もないから、すっきりしています。寺田農さん

profile
寺田農(てらだみのり)
1942年東京生まれ。62年に研究所を経て文学座に入団。68年、岡本喜八監督の映画『肉弾』の主役に抜擢され、毎日映画コンクール主演男優賞受賞。その後、俳優、声優、ナレーター、映画監督、エッセイストと幅広く活躍。父は、洋画家・寺田政明氏。

芸術家が集まる"アトリエ村"という、一風変わった環境で生まれ育った寺田農さん。芸能界に入ってからは都心のマンション、海の見える一軒家などを転々としたあと、ご実家を建て直して、長らくそこで過ごされたそう。そして2011年に再婚。再婚後の暮らしからは、意外な一面も垣間見えました。

“アトリエ村”で生まれ育ち、5歳のときに一軒家に引っ越し

寺田農さんの写真1
子どもの頃を思い出す寺田農さん

現在の豊島区要町から長崎町辺りには、大正時代の終わり頃から昭和二十年代にかけて、アトリエ付きの貸家が集まった「池袋モンパルナス」と呼ばれる地域がありました。たくさんの画家や詩人が暮らしていたのですが、父が画家だった私はここで生まれました。
そこに建ち並ぶ一軒の間取りは1LDKで、家賃も手頃。それでいてちゃんとしたアトリエ付きだったので、芸術家があちこちから集まったんです。当時アトリエ村というのがいくつかあったのですが、「池袋モンパルナス」はその先駆けでもあり、入れ替わり立ち替わりで、延べ2000人くらいの芸術家が暮らしたそうです。
私は幼かったので、当時の暮らしをはっきりとは覚えていませんが、細い路地がありそこに一軒家が並んでいたような記憶があります。多くの芸術家は一軒家を借りていたのですが、我が家は長屋が二軒つながったところを借りていました。一方はアトリエとして、もう一方を住居としていたため、他の方の住まいに比べると広かったのです。そのため、人が集まりやすく、しょっちゅう父の仲間たちが来て、酒を飲んでは騒がしくしていたことを覚えていますね。
そして、私が5歳のときに板橋区のときわ台というところに父が家を構えました。あたり一面に田園が広がり、木々に囲まれた一軒家です。周囲には何もなく、隣の家も数百メートル離れていましたから、私には隣近所の友だちというのがいませんでした。父を訪ねてきた人たちは、東京らしからぬ環境に驚いて「先生、大変なところにお住まいですね」なんて、よく口にしていました(笑)。父は、「この田園風景が素晴らしいんだよ」とよく言っていましたが、私たち兄弟は「なぜ、こんな不便な場所を選んだのか」と、冗談で父を責めたものです(笑)。

転々としたあとは実家へ。信頼する建築家とともに家を建て直す

寺田農さんの写真2
これまでの引っ越しを振り返る寺田農さん

私は大学在学中だった19歳で実家を出て、ひとり暮らしを始めました。すでに芸能界の仕事をしていて、ちょうどテレビにも出始めた頃です。一度、不摂生な生活がたたったのか体調を崩し実家に強制送還されましたが、しばらくしてまた家を出ました。そこからは都内を中心に転々としています。これまでにざっと数えて18回くらい引っ越しをしたんじゃないでしょうか。
実家を出て最初に一人暮らしをしたのは、赤坂のマンションです。その後、四谷三丁目に二年ほど住み、次は原宿へ移動。そして、最初の結婚を機に代々木上原に住みました。その後、また原宿の賃貸に移ったのですが、近くに良いマンションを見つけたので購入しました。それが初めての持ち家です。当時の原宿は静かで、住みやすい街でした。そのマンションも、広くて使い勝手が大変よく気に入っていたのですが、しばらくすると、また移動したい衝動にかられるんですね。娘が小学二年生くらいだったかな。「海が見えるところに住もう」ということになり、今度は鎌倉に引っ越しをしました。
鎌倉に来て最初は賃貸でしたが、駅からも近い新築の一軒家に出会い購入しました。その後、娘が中学校に入るタイミングで東京に戻りました。参宮橋でしばらく暮らしましたが、娘が大学に入るので、「じゃあそろそろ引っ越しをしようか」と、大学の近くに移りました。一カ所に定住することに飽きてしまうのか、早いと半年、だいたい2∼3年周期でちょくちょく引っ越していますね(笑)。
ですが、1990年に父が亡くなり、母が一人になったこともあって、私は家族と共にときわ台の実家に戻り、母と二世帯で住める家に建て直しをしました。昔から付き合いがあった建築家・宮脇壇さんに依頼をして、いろいろと話し合い、こだわって建ててもらいました。しかし、建築家ならではのこだわりは、住み手には困ったことになることもありました。例えば、父の絵を飾れるようにと吹き抜けにしていただいたのですが、それを照らすダウンライトがとんでもなく高いところに設置されている。住んでみてから「あのダウンライトが切れたらどうすればいいんだ?」って。はしごをかけても届かないから、電球ひとつ変えるのに電気屋さんを呼ばなくてはならないのですよ(笑)。でも、信頼していた建築家が手間暇かけてじっくり建ててくれた家は、やはり素晴らしい造りでした。すぐに引っ越しをしたくなる性分の私でも、さすがに数年でどこかに移動する気にはならず、結局18年間そこに住みました。

実家を手放し再婚後は賃貸マンションに。今後は京都という選択肢も

寺田農さんの写真3
現在の暮らしについて話す寺田農さん

今から8年ほど前までは、ときわ台の実家に住んでいました。2006年に離婚をしたので、途中から母と二人で暮らしていました。のちに母が亡くなり、しばらくは一人暮らしでしたが、広い家で単身も物騒ですし、管理も大変ですから手放すことにしたのです。
私は物に執着するほうではありません。それに、家を処分したあとはホテル住まいをしようと考えていました。そのため、本当に必要なもの以外は人に譲るなどして処分し、できるだけ身軽にしました。片づけるのに一番大変だったのは、父の作品ですね。それはそれは膨大な量の作品と資料が残っていましたから。美術館に寄贈するにも、私には何にどんな価値があるかなどがわからないので専門家に来ていただき、精査してもらいながら1年ほどかけ、やっと片づきました。
当初はホテル住まいを考えていたのですが、縁あって2011年に再婚をしました。そうなるとホテルで暮らすのも不便なので、今はマンションを借りて妻と二人で暮らしています。夫婦二人暮らしのため家事ももちろんやります。掃除と洗濯、それに食器洗いが好きですね。お風呂掃除やら換気扇の掃除やら、何でもやりますよ(笑)。
今後は、必要があればまた引っ越すかもしれません。若いころは原宿がいいとか、海の見える鎌倉がいいとか、洒落た環境を求めてあちこち移動をしていましたけど、今は、その点のこだわりはないですね。予定は未定ですが、妻の生まれが京都なので、京都で暮らすというのも選択肢のひとつかな、と思っています。

こぼれ話

写真に写るのは、幼き頃の寺田さんとときわ台のご自宅。
「昭和22年、私が5歳の頃の写真です。当時は家畜としてヤギ、うさぎ、鶏などをたくさん飼っていました。ヤギの乳しぼりは私の役目でした」

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