Vol.62 美川憲一さん

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インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼ 各界でご活躍の方々に、家、住まいに、住み替えにまつわるお話をうかがいました。 インタビュー 私のいえ ∼すまいの履歴書∼

Vol.62 2022/11/16更新

直感を大事にしていたら、所有する家が増えました。いい出合いは逃さないんです。

直感を大事にしていたら、所有する家が増えました。いい出合いは逃さないんです。 美川憲一さん

profile
美川憲一(みかわ・けんいち)
1946年、長野県生まれ。1965年「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。翌年に「柳ヶ瀬ブルース」、1972年「さそり座の女」の大ヒットでスターダムへ。1980年代後半のコロッケさんのものまねで再ブレイク。『NHK紅白歌合戦』では小林幸子さんとの豪華衣装合戦も話題となった。

幼少の頃から東京のど真ん中で育った美川憲一さん。デビューしてからは、初めて購入したマンション、母親のために建てたマイホーム、海外に所有するセカンドハウスなど、住まいも大きく変わりました。これまで暮らしてきた家にまつわるエピソードや、とことんこだわるというインテリアについて、お話を伺いました。

二人の母と厳格な父。幼少期の思い出が詰まった西新橋の実家

美川憲一さんの写真1
実家での小さい頃の思い出を語る美川憲一さん

長野県の諏訪で生まれ、2歳から東京の西新橋で育ちました。昔はあの辺りに都電が走っていて、隣の駅が虎ノ門という都会の真ん中。でも、ちょっと路地を入ると長屋のように連なった家がたくさんあったんです。うちはトタン屋根の2階建てで、道路に面して住みやすかったけど階段がすごく急でしたね。両親と3人で暮らしたんですが、実は私、生い立ちが複雑で、実の母と育ての母、つまり2人の母親がいるんです。実母は、そうとは知らないまま妻子ある男性との間に私を身ごもり、未婚で出産しました。そのうえ、肺結核を患って療養することになり、幼い私を泣く泣く姉夫婦に預けた。それが、西新橋の家だったわけです。5歳になったころ、実母が迎えに来たのですが、私が「やだ、やだ」と養母にしがみついて離れないので、実母はあきらめて姉夫婦に私を託し、自分は“叔母”として私の成長を見守ることにしたんですよ。
実母はよく私を訪ねてきて、私も「おばちゃーん」と甘えていましたが、私にとっての「お母さん」は、やはり育ててくれる養母でしたね。
養父は厳格な人で、「食事中は正座をし、一切しゃべってはいけない」としつけられました。お金がなくても、静かに品のある食べ方をすることが、我が家のしきたりだって。そんな父が、ある時、知人の保証人を引き受けて、借金を抱えてしまったんです。気に病んだ父は脳出血で倒れ、私が小学校低学年の時に亡くなりました。
それからは、玄関脇のスペースは電気屋さんに貸して、「箱入り奥様」と言われていた養母が、昼は保険の外交員、夜は築地の料亭で仲居をしながら借金を返していきました。家財道具や家の中のあちこちに差し押さえの紙が貼られていたことは鮮明に覚えています。でも、そういう養母の苦労とか、懸命に働く姿を通じて、とても大事なことを教わったように思います。実母のほうも、風呂敷包み一つ持って、どこへでも働きに行くというような働き者で、母親は2人ともたくましかったですね。借金もきっちり返済しました。

デビューして、初めて買った赤坂のマンションを自分好みにコーディネート

美川憲一さんの写真2
最初に購入した赤坂のマンションについて語る美川憲一さん

昭和40年に歌手としてデビューしましたが、「柳ヶ瀬ブルース」がヒットしたころは、まだ西新橋の家に住んでいたんですよ。「新潟ブルース」を出した昭和42年ごろに、立ち退きの話が持ち上がり、新居を探すことになった。「家はいずれ建てるつもりだから、それまでマンションに住むのもいいかな」なんて考えていたら、赤坂の一等地に東京タワーが見える豪華なマンションができて、昭和46年に購入しました。同じ時期に、麻布十番にも良いマンションを見つけて、まずは育ての母が住む場所として買いました。親孝行しようと思って。実の母にもけっこう高級なアパートを借りてあげましたよ(笑)。全て港区界隈の、どこへ行くにも便利な場所。赤坂のマンションには私が一人で住みましたが、家財道具から何から全部特注で、本当に素敵な住まいになりました。銀座の「ギャルリーためなが」で買ったフランスの画家カシニョールの絵や、大きな籐のランプシェードなど、みんな私の好み。若かったし、仕事も一番乗っていた時期だから、インテリアには相当こだわりましたね。母は2人とも料理が上手で、3人そろって手料理を食べることもありました。近くに住み、みんなで食卓を囲んで、本当に親孝行できたなあと思っています。
赤坂のマンションは4,800万円で買ったんですが、8,000万円くらいまで上がったのを機に売却。利益が出たので、ホテルニューオータニのスイートルームで1ヶ月暮らしました(笑)。その後は、目黒のおしゃれなメゾネットを借りて、しばらく犬と一緒に住んでいました。仕事では、1980年代にはスランプがあったんですが、仲良くしていた越路吹雪さんから「家を構えると、そこでのんびりしちゃうから、家は最後でいいのよ。守りに入るより、自分に投資しなさい」と言われていたんです。だから、スランプでもオートクチュールの衣装を着て、「美川憲一」のキャラクターを確立しようとしていた。そしたら、コロッケさんのものまねや「タンスにゴン」のCMが爆発的にウケて、再ブレイク。私、チャンスには食らいついていくタイプなんですよ。

ご縁と直感を大切にして、納得の自宅売買

美川憲一さんの写真3
お気に入りの家との出合いについて語る美川憲一さん

ちょうどそのころ、平成5年に世田谷区の深沢に家を建てました。総工費7億円なんて言われましたけど、建てるなら中途半端は嫌だと思っていたので、ドアを始め、内装のほとんどが外国製の特注品でした。そういう私のセンスや美意識は、2人の母の影響が大きいですね。着物をきっちり着こなす養母と、洋装でモダンガールの実母。2人ともすごくおしゃれでした。子供の頃は日曜日になると、養母は私に半ズボンとハイソックスをはかせて、「さあ、おしゃれして銀ブラするわよ」と銀座に連れて行かれました。借金もあって経済的にそんなに楽じゃなかったはずですが、「これは外国から来たものよ。色合いがきれいでしょう?」と良いもの、きれいなものを私に見せるのが母の趣味で、私の感性は、そういうところで磨かれたと思っています。
世田谷の家は、苦労して私を育ててくれた養母のために建てたんですが、実母も一緒に住みたいって言い出して(笑)、3人で暮らしました。地下1階、地上3階の8LDKで、1階にキッチン、トイレ、母の部屋、和室などがあって、2階はリビングと私の生活スペース、3階はほとんど衣装部屋。そこに住んで3年ほどで養母が亡くなり、平成18年に実母が亡くなったんですが、生前に「あんたのおかげで本当に幸せに過ごせた、ありがとう。でも私がいなくなったら、あんた一人になるけど大丈夫?」と聞かれたんです。「あなたたち姉妹の強さをちゃんと受け継いでいるから大丈夫」と送り出しました。
一人になって住んでみると、やっぱり広すぎて、世田谷の家は通いのお手伝いさんに管理してもらい、私は青山に3LDKのマンションを買いました。グッチやプラダなどのブランドショップが並び、交通に便利なあのエリアが、私にとっては理想的なんですよ。世田谷の家はしばらくそのままにしていたけど、昨年ご縁があって売却しました。住まない家に維持費を払い続けるよりも、今を楽しむことにお金を使ったほうがいいなと思って。
私、海外旅行も大好きで、しょっちゅう行っているうちに、ロサンゼルスとバンコクにも家を持つことになりまして(笑)。ロサンゼルスの家は、1994年に大地震があった直後、1ドル82円の時に買ったから、今すごく価格が上がっています。とても古い建物なんですが、バルコニーからの眺めが最高なんです。眼下にビバリーヒルズとハリウッドが一望できて、夜景と夕日が本当に素晴らしいの。内覧に来た時、広大なロサンゼルスの街に落ちていく夕日を見て、あまりの美しさに涙がこぼれ、即決で購入したくらい。唯一、私が安らげる場所です。
夕日を見て家を買ったなんて、直感に頼りすぎかしらと思うけど、家との出合いは、めぐり合わせやご縁だと思うんです。青山の自宅もロサンゼルスの家も、そこでしか味わえない楽しみがあって、その暮らしを満喫するために、仕事をがんばろうと思える。年齢を重ねてしんどくなってきたら、手放せばいいじゃない。家を持つことに執着せず、成り行きにまかせて直感を大事にしてきた結果、素敵な家と何度も出合うことができて、本当にありがたいと思っています。

こぼれ話

美川憲一さんに購入を即決させたというロサンゼルスのコンドミニアムから見る夕陽。
美川さん曰く「夕陽見て涙が出たなんて、生まれて初めてよ(笑)」。
眼下に広がる街並みに大きな夕陽が沈む風景に時を忘れそう。

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